プロフィール 生い立ち編

はじめまして、当ブログを管理しています

遠藤貴俊(えんどうたかとし)と申します。

 

東北は山形生まれ、山形育ち、

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1991年生まれです。
私は主に、カメラ転売、コンサルティング、などのビジネスを行っています。

おかげ様で起業することができ、現在は代表取締役ということで、

一社の社長をさせていただいています。

 

私は小さいころ持っていたイメージで、

「社長は本当にすごい人で、世界を支配している中のひとり」

くらいに想像していました(笑)

 

 

そのくらい「社長」というイメージ図は、

小さいころの自分にとっては偉大な存在でした。

 

そう思っていたのには、理由があります。

 

私の家は、それほど裕福な家庭ではありませんでした。

 

小さいころの記憶として、いまでも覚えているのが、

よく父親には、

 

「家は貧乏だから、おもちゃ買って!とか

あれ買って!とか言わないように」

 

と言われていました。

 

 

その「貧乏」という言葉がずっと頭に残っていて、

それは、いまでも忘れることのできない記憶です。

 

他にも、私が苦痛だった経験を具体的に話しますと、

私は中学生になり、部活動は野球部に入部しました。

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部活動では、

野球のユニフォームやグローブ、タオルなど毎日荷物が多かったのです。

 

例えば、陸上部や卓球部であれば、

体育で使う運動着で部活をやっていましたが、

野球部の私はそうはいきませんでした。

 

そこで、ほとんどの野球部のメンバーは、

野球のセカンドバッグというものを買ってもらい、それに野球の道具と、

体育で使う運動着を入れて持ってきていました。

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↑野球のセカンドバッグとはこんな感じです

 

しかし、私はこの野球用のセカンドバッグを買ってもらうことができませんでした。

親に「必要なものだから」と頼んでも、

買ってもらうことができなかったのです。

 

ですから、私は家にあったリュックに運動着を入れ、

また違うもう一つのリュックに野球のユニフォームを入れ、

そして、学校指定の勉強カバンに教科書や筆入れを入れ、

3つのバッグを持って通学していました。

 

自転車通学でしたので、かごに1つバッグを入れ、

自転車の後ろにバッグをくくり付け、

もう一つは自分で背負って登下校を繰り返しました。

 

 

それが1年半ほど続きました・・・

 

思春期ですから、周りからの目をかなり気にする年頃です。

ですから、それがかなり苦痛だったのを覚えています。

周りは、野球バッグと勉強カバンの2つで登下校していましたから。

 

 

私よりも1つ学年が上の先輩が野球部を引退したと同時に、

野球バッグをタダで譲っていただき、

ようやくバッグ2つで登下校が出来るようになった日の喜びは

いまでも忘れることができません。

 

この様に例を一つ挙げましたが、

他にも思い出せる事はいくつかあります。

 

私がこれまでの経験で感じたことは、

必要な物を買い与えてもらうことができなかった、

友達は持っているのに、

自分は持っていなくて非常に嫌な気持ちをして苦しんだ経験をしてきた、

ということです。

 

 

その当時は、本当に苦しかったです。

 

 

私には強い願望があります。

 

いまは独身ですが、将来的に結婚をしたいと思っています。

そして、子どもも欲しいですし、3人は欲しいと思っています。

 

そして、もし子どもができたのなら、

その子どもたちには、

なに不自由ない暮らしをさせてあげたいと思っています。

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自分が未成年の頃にした辛い経験は、

子ども達にはして欲しくない、という強い想いがあります。

 

 

私は人間ひとりひとりには、

たくさんの「可能性」がある、と強く思っています。

いま、不景気な世の中だからこそ、大きな夢を持って

たくさんチャレンジする人が増えることを願っています。

 

 

もし自分の子どもが、私と同じように

野球をしたい!と言ったら、

野球が出来る最高の環境を提供してあげたい、と思っています。

 

 

もちろん野球は強制するわけではありません。

例えば、ピアノがしたければピアノでもいいです。

勉強がしたいなら塾に通うなど

なんでもいいのですが、

 

子どもが求めていれば、出来る限り最高の環境作りをしてあげたい

と思っています。

 

 

そう強く思う理由は、上記の様に苦しい経験を自分がしてきたから、

自分の将来の子どもにはさせたくない、と強く思うのです。

 

 

では、子どもにそういう環境を提供するためには

なにが必要か?

 

お金も必要、時間、知識、人脈、最高の人間関係、仲間など、

まだまだ必要な物は尽きません。

それを掴むためにがんばっていこう、と決めたのです。

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幼少期から時は過ぎ、

自分がいまその「社長」という役職に就いています。

 

幼いころには想像もできなかった

「社長」になっていくまでの道のりを合わせながら、

私の自己紹介をさせていただきます。

 

1991年に、東北は山形県で産声をあげました。

祖父、祖母、父、母、私、妹1、妹2

と、7人家族でした。
★小学時代

 

非常に自我が強く、運動が好きな

活発な男児だったように思います。

 

毎週火曜日&金曜日の19時~21時まで活動している、

スポーツ少年団のクラブに入りました。

冬はクロスカントリースキー、

それ以外の雪がない時期は陸上競技でした。

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山から降りてくる、アルペンスキーは大好きだったのですが、

スポ少でやっていたクロスカントリーは嫌いで(笑)

よくもまあ6年間も継続したなと思います。

 

その当時は、辛いことでも継続すれば必ず将来に生きる!

と思っていました。

その想いは、しっかりといまに生きています。

 

 

勉強はそこそこ(笑)
★中学生時代

 

部活は野球部に入りました。

いま現在でも野球は趣味として、

全国を目指して励んでいます。

 

本格的に野球を始めたのは、中学からでした。

野球にはかなり真剣に励みました。

 

自分で言うのもなんですが、素直で真面目な性格なために、

1度決めたことは曲げるのは嫌いで、

野球にはとことん励みました。
しかし、2年生の冬。

 

趣味のスキーをしていての出来事でした。

 

高さ2メートルくらいのキッカー(ジャンプ台)ど飛んだ時にバランスを崩し、

着地と同時にゴロゴロと転がり、

気付いたら横になって倒れている自分がいました。

 

 

右足の骨折。

全治1年、と告げられました。

 

 

メンバー9人に入るためにレギュラーを争っていたのですが、

そこから野球ができなくなり、そこから脱落しました。

 

 

最後の大会は6月のため、骨折した2月から4ヶ月間しかなく、

おそらく出場は無理だろう、と医師から告げられました。

 

 

しかし、チームは見事に勝ち進み東北大会にまで出場しました。

最後は敗戦し引退しましたが、

8月6日まで野球をすることができました。

 

おそらく、私達の年代の山形県内では、

一番長く野球をやったのは、

私達の中学だったように思います。

 

最後は代打で出場することができ、いまでも最高の記憶として刻まれています。

(三年生で出場したのは、その1打席だけ。結果は四球)
★高校時代

 

中学時代の無念の骨折の思いを晴らすべく、

高校野球で暴れまくろうと誓いました。

 

ですから、高校時代は中学時代以上に

野球漬けの毎日を過ごしました。

 

そんな中で、高校1年生の11月に祖父が他界。

 

葬式での孫代表の弔辞では、

中学で果たせなかった、

野球でのレギュラーポジションを獲得して、

高校野球で大活躍することを祖父に誓いました。

 

 

しかし(笑)

 

 

骨折などのケガはありませんでしたが、

単に私の実力不足で、

レギュラーポジションを取ることはできませんでした。

 

主に代打や3塁コーチ、投手としてチームを支え、

最後の夏の山形県予選では、

仲間とともに2勝して、

ベスト16に入った事は一生の宝物です。

 

 

勉強に関しては、1日6時限ある授業の中で、

6時限全部寝ていたりすることもあり(笑)

学力は地底へと落ちていきました・・・

 

その日の授業を全部寝ることを「全寝(ぜんね)」と名付けました。

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部活を3年生の7月に引退しました。燃え尽きました。

その後の進路として、進学するという選択がありましたが、

私は、高校卒業後は働く決断をしました。

 

理由としては大きく2つあります。

当時は特に夢がなかったため、進みたい学校がなかった

家庭が金銭面で貧しく、進学したいとは言えなかった

 

部活で燃え尽きた私は、その後の将来で夢を持つことができず、

適当になるようになるさ、

という感じで地元の製造業の会社に就職しました。

 

★製造の会社に勤務

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特に給与面に関しては、会社に対して文句はありませんでした。

しっかりと休みもありましたし、

残業したらした分だけ還元してくれる会社でした。

 

人間関係も良好で、同年代の方も多くいましたから、

そういう面でも特にストレス無く

「普通の会社員」という感じで生活を送っていました。

 

ただ思っていたことは、

「こんな感じで普通に働いて将来は普通に結婚して、

普通に子育てして、普通に老後生活を送って、

普通に死んでいくんだろうなー

ということです。

 

これが若干嫌だとは思っていましたが、

それを打破するにはどうすればいいか?ということが、

その当時の自分には分かりませんでした。

 

 

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